2005年11月08日

奥共同店 その1

まずはお知らせ!
奥共同店創立100周年に向けたフォーラムが開催されます!!
来月の12月10日(土)、奥集落センターにて。

みんなで共同売店を応援しましょう!

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奥共同店 その1

沖縄の各地で、村々の生活を支えてきた共同売店。
その歴史は奥共同店から始まりました。
奥共同店は1906年4月に創立されました。
ということは、来年は記念すべき創立100年!

明治の末期から、戦争、米軍統治、そして日本復帰。
荒れ狂う大波のような時代のうねりを越えて、
共同売店は、つねに生活の中心であり続けてきました。

共同売店とは、ヤンバルや離島などの、部落(集落、シマ)単位で
住民が平等に出資しあって設立、運営している店のこと。
第1号の奥共同店の誕生を機に、沖縄各地で次々と設立され、
今なお数十店が残っているといわれます。
小さな辺境のムラが、外来の商人などから地域を守るため、
生み出した仕組みが、共同売店です。

奥共同店 その1

奥共同店の創立80周年を記念碑にはこうあります。

「糸満盛邦翁は安政元年(一八五四)に生まれ、
昭和14年(一九三九)八十四才で没した。
同氏は公共心に厚く、
生前自ら営んでいた店の利益が大なることを認め、
それを何とか字民共同の事業とすべく、
時の有志と諮り字民の多大の賛同を得て
同氏の雑貨店を引継ぎ、
明治三十九年春、
奥共同店として産声をあげた。
そして同氏は自ら同店の監督として、
その基礎づくりと発展に尽くされた。
共同店創立八十周年記念に当り、
その功績を讃えこの碑を建立する」


共同売店は普通の店とは違って、
「店主」ではなく、「主任」がいます。
現在の奥共同店の主任は、糸満盛也さん。

共同店の主任というのは、区に雇われて給料を貰ってるんです。
主任は、区の選挙で選ばれる。任期は2年。
私が主任になったのは今年3月から


共同売店が、普通の個人商店とは大きく異なる点はここです。

でも、選挙といっても立候補する人はいませんよ、
だって儲からないもの!」


と笑いとばす糸満盛也さんは、実は創立者の糸満盛邦翁の血を引くとか。

創立者の糸満盛邦は元家(糸満家)の4代目。
僕は7代目にあたる


奥共同店 その1

ここの方言は沖縄のどことも異なってますよ。
自動車道が開通したのが昭和28年。
それ以前は、隣りの部落よりも
沖に見える与論島との行き来が盛んだったくらい


奥をはじめとするヤンバルの各部落は、かつて、
どこへ行くにも船が頼りの、文字通りの「陸の孤島」だった。
奥の人たちは、共同で船を購入し、重要な産物である薪や炭を那覇に売り、
帰りには、生活物資を買って戻ってきた。

当時は炭焼き窯が45個所もあって、
それをまとめるのが共同店だった


最盛期には、木炭の生産だけでなく、
共同で精米や、酒造、電力事業まで行っていた。
そうやって上がった利益は、住民へと分配され、
診療所を建てたり、奨学金にあてたりなど、
福利厚生事業などで還元された。

このようにして共同売店は、人々の生活や経済に大きく関わってきましたが、
日本復帰(1972年)以後、その数は減り続けています。
1978年から83年にかけての沖縄国際大学南島文化研究所の調査では、
120ほどの共同売店が残っていましたが、
現在は、半減しているといわれています。


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まだまだあるんですが、
長くなるので、今回はここまでにしておきます。



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