2006年01月11日

安田協同店

追記:安田協同店はこちらでも紹介しました

今年最初に紹介するのは、安田(あだ)協同店。『季刊カラカラ冬号』のために話を聞きにいったんですが、書ききれないことがたくさんあったので。(取材日 2005.10.29)

安田協同店

沖縄本島北部・国頭村、太平洋に面する安田部落。
本島北端の部落である奥から南下すると、楚洲に次いで2つ目の部落。
他のほとんどの部落は東海岸を貫く県道70号線沿いに点在するから、ヤンバル一周ドライブのついでに通ることができる。
でも安田へ行くには、70号線を外れ、2キロ程下っていかなければならない。
この先にあるのは安田部落と海だけ。
ドライブ客もツーリング族も、なかなかここまで足を伸ばすことは少ない。
ゆえに、実は那覇から一番遠い場所、と呼ばれることもある。

国頭村のホームページによれば、人口258名、戸数110。国の重要無形文化財に指定されている祭り「シヌグ」の地としても知られる。|安田の大シヌグ

でも最近では、「ヤンバルクイナの里」としての方が有名かもしれない。
絶滅が危惧されるヤンバルクイナの保護のため、安田区ではすべての飼い猫の登録を義務付け、マイクロチップを付ける試みをはじめたところ、その動きはヤンバル全体に広がった。昨年2005年3月には、ヤンバルクイナ救命救急センターも完成。それらの取り組みが評価され、第6回明日への環境賞を受賞。
来る1月13、14日には、ヤンバルクイナの保護に関する国際ワークショップヤンバルクイナ国際会議(沖縄タイムス2005.12.25)(主催・ヤンバルクイナPVA実行委員会)が安田の公民館で開かれる。


前置きが長くなりました。安田協同店のお話。

安田協同店


―― 安田協同店の主任、宮城稔さんにお話を伺いました。

「今はもう部落の経営ではありません。
請負制に変わったのは、6年前。当時の主任だった人が請け負いすることになった。
私が請け負ってから4年目です。入札と契約は2年ごと。月々いくらという形で請け負って、部落に対して家賃を支払うカタチ。
この土地や建物は部落の共有財産ですから、部落には財産管理委員会というのがあって、そこに支払うわけです」

―― やがて「共同売店はどこもきびしいよね~」といういつもの話になる。

「こっちも売上は年々落ちてる。
経営は請け負った人に任せられるんですが、営業時間など部落で決められた規則がいくつかあって、それは守らなければならない。
数年前に国頭商工会が一括仕入れ案なんていうのを考えていろいろ話し合ったけど、結局ダメになったし。
仕入れ先はけっこう多いですよ、20社くらい。金物屋とか乾物屋とか、パン屋さんとか、、、一括仕入れは難しいよね」

―― 「部落の人はよく共同店を利用していますか?」

「ここから一番近い町は、辺土名。そこまで車で30分くらい。 でも若い人は名護辺りまで買い物にでかけちゃう。
生協で買う人も多い。若い人はほとんどだね。
部落に協力しようという気持ちが薄れてきている。店がなくなれば、タバコ1個買うのに車で出かけなきゃいけなくなるというのに

―― 「店のとなりに民宿もありますが、観光客は来ますか?」

「ヤンバルクイナで全国的に有名になったのはいいけど、変な人が多くなって困るね(笑)
最近はヤンバルクイナが部落内まで下りてくるので、カメラ下げた観光客が人の家にまで入ってくるようになった。
観光客も昔は地元で買ってくれたけどね。最近は向こうで買って持ってきて、代わりにゴミを置いていったりね(笑)」

―― 「掛け売りはしてますか?」

「掛け売りもしている。全員に対してではないけど。
商売の運営はまかされてるから自分の判断。回収できなければ自分の損になるだけだよ。
新聞代も売店に払っている。部落に新聞販売所はあるけど集金はしてないから。
延売帳?それはもちろんあるよ。班ごとに全戸載ってる。部落の人なら全員顔を知ってるから」

安田協同店


―― 公民館でパークゴルフの打ち上げ中の皆さんにちょっとお邪魔してきました。仲原さん(国頭村役場勤務)のお話。

「私は以前、沖縄大学の上地武昭先生とやんばるを回って調査したことがあります。
売店がなくなったら、そりゃ大変です。困るのは年寄り。
福祉的な面から活性化していかないとけない。
でも各売店の人たちは、目の前の商品を売ることで精一杯。いろんなことをやる余裕がない。
儲けは少ないけど、みんな使命感でやっているんだよ。
部落の住民が必要性に気付いていない。
存在価値、必要性をもっと訴えていくことが大事じゃないかな」


―― 古堅昇さん(安田区財産管理委員会委員長)のお話。

「共同売店?こんな田舎のこと、やってもどうにもならんよ。
名護のスーパーのチラシが来れば、みんな車で買いに行く。共同売店の仕入れ値よりそっちの方が安いんだから太刀打ちできない。
道がない頃は、生活のあらゆる面を支えてきたけど、今は地域の人が買わないんだからどうしようもない。
若い人は何でもとにかく安いところで買えばいいとしか考えていない。部落を支えようという意識がない」

―― いきなりアッサリと「どうにもならん」と言われてたじろいたが、どうにか話をそらすために「財産管理委員会って何ですか?」と尋ねる。

「財産管理委員会は、今まで積み立てて来たお金や公民館などの財産を管理している。
今のバスは村営になっているけれど、昔はバスも売店で出していた。
区費は共同店の資金でまかない、PTAなどに寄付した。
最近できた公民館は補助金で作ったけれど、そっちにある前の公民館は売店の売り上げを蓄えて部落で建てたものだよ。当時のお金で7000ドルだった」」

―― 「売店が出来たのはいつごろですか?」

「安田協同店ができたのは大正の初め。
戦前の記録は失われている。ここはこんな田舎だけと、燃料となる木炭をたくさん生産し、積んでいたから、軍事施設とみなされて米軍の艦砲射撃を受けた。家一軒残っていなかったよ。
戦後、協同店は配給所として再興された。
米軍が駐留していた塩屋(大宜味村)や辺土名(国頭村)から、米や缶詰を担いで、与那の山道を歩いて運んだよ。
夜明け前に出発して、着いた時には真っ暗だった。一日がかり。
その後は船を買い、塩屋か与那城へ仕入れに行くようになった。
1956年に道が開通したので、トラックを買って仕入れるようになった」

―― 当時の話になると、生き生きと記憶が甦って楽しそうな古堅さん。

「山仕事はいくらでもあった。
最盛期には、部落の人口は1000を越えていた。
建築材、炭、タムン(薪)。山から切りだしては浜に運んで、船に積んで。役場なんかに務めるよりも、山仕事の方が倍は稼いだ。
それを共同店がすべてやるんだから
那覇へ売りに行き、必要なものを買い、部落で安く売った。共同店は、まさに生活や経済の中心だった。
共同店は一時は3つもあったこともある。政治的な理由だったが。
昭和8年にまた一つになった。
復帰して、本土からスギ材が入るようになり、やがてもっと安い外材が輸入されるようになり、山仕事もなくなった。
昔はサトウキビを2トン出荷すれば1人分の月給(50ドル)になったものだ。
今はキビはトン2万。2トン出荷しても4万円にしかならない。
肥料も高くなってしまった。 今は、ここは農業も大した事はない。漁港が中心」

―― 「古堅さんは主任をされたことは?」

「私は主任も何度もやったよ。
買い物をすると券を渡した。それを集めて年間どれだけ買ったかによって配当した。
昔は朝7時から夜10時まで開けていた。今みたいに、ビールやお酒をまとめて買うなんてことはできない。
みんな金もないし、冷蔵庫なんて各家庭にはないから、お酒も醤油もすべて量り売り。
酒はとても高価だった。だから酒のみの家は大変。子供を糸満に売ったり。
昔は金がなくても、立替えてやったり、奨学金を出したり、銀行と一緒
店には石油やガソリン、薬品など何でも置けた。しかし今は規制ができて、資格がないとダメ、施設も整備しないとダメという時代になってきた。
おかげで今の共同店は、ただのマチヤ小になってる。
以前は、診療所があり、産婆さんもいて、みんな家で出産したものだが、、、、
確かに消毒が不充分で、生後1週間で死んでしまうようなことも昔は多かったが。
それなのに、今ごろになって名護病院に産婦人科医がいないなんてことになってる(笑)」

―― 今のことになるととたんに暗くなる古堅さん、、、

「共同体意識は薄れてる。
昔は萱吹きなども、みんなでユイマール。男でも女でも平等だった。
今は一から十まで金の計算。 世の中便利になりすぎて、電話一本でアメリカからでも買える。
共同店が昔のように発展するなんて考えていない。
新しいことをはじめるのは大変。
せめて今の状態を何とか維持できれば、、、」



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この記事へのコメント
あけましておめでとうございます。
なんと、
新春からすばらしい調査!
プロ顔負けではないですか。すごい!
共同売店の今を知る貴重な資料にもなりますね。
奥の共同店のイベントがテレビニュースで紹介されたらしく、以来、「テレビ見ましたよ」とあちこちで言われます。テレビは恐いですね。次回からは覆面でもしようかと思っております。共同売店がある東北の県の県会議員みたいに。
今たくさんの取材が奥に来ています。今後、テレビでも雑誌でもたくさん紹介されるはず。(ここでお知らせしていいのかまだ分からないので今回はこれだけ)某公共放送と某機内誌に注目しておいてくださいね。(ほとんど言ってしまってるけど)
マキシさん頑張ってくださいね。というか、一緒に頑張りましょうね。
ところで、
奥共同店でブログを始める計画があります。でもパソコンができる人がほとんどいない。
それで、沖縄大学地域研究所で2月の中旬に奥でパソコン講習会を開くことにしました。
それで、パソコンができるボランティアを募集します。研究所の都合で平日になってしまいますが、可能な方はぜひご参加ください。
詳しいこと決まりましたら、またお知らせします。
自分とこのブログにも書いてないことこちらに書いちゃいました。
マキシさんごめんね。
Posted by MIYAGI at 2006年01月13日 01:50
返事遅くなってスミマセン~、
「調査」なんていってもらえると嬉しいですね!
聞いた話を、私だけが知ってるのはもったいないから誰かに話さなきゃ、という感じで書いてます。

奥共同店ブログ!
いいですね!ぜひお手伝いしますよ!
よければこのブログでも募集しますし、仲間にも声掛けますので。

しかし、覆面教授、いいですね(笑)
よけい有名になったりして。
Posted by マキシ at 2006年01月19日 01:46
はじめまして、泡瀬に住んでいるpacific-18です。
私も最近ヤンバルアッチャーをしています。
名護市嘉陽の嘉陽共同売店のM氏には特にお世話になっていて交流をしています。テレビやラジオでは教えてくれない地元の情報を共同売店を通して観光案内所的機能も果たしていますね。
マキシ殿のレポートこれからも楽しみにしてますのでがんばって下さい。安田もいい所みたいですね。近いうち、安田の売店で買い物してみますね。
Posted by pacific-18 at 2006年01月30日 13:46
pacific-18さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

嘉陽の売店は、お弁当作ってるところですよね。
暮れにちょっとだけ寄ったのですが。

さかのぼれば高校生の頃、自転車で沖縄一周した時、
嘉陽の浜でキャンプして、売店にもお世話になったな~
懐かしいです。

よし!今度は嘉陽にお邪魔しよう!
Posted by マキシ at 2006年01月30日 19:29
 
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