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2015年02月20日

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて

昨年8月まで週刊レキオで書かせて頂いてきた共同売店紹介。
9月からは「マチヤグヮー(個人商店)編」として連載を継続しています。

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
南城市佐敷仲伊保、吉田商店 糸満市喜屋武、徳村商店


ファンクラブでは、発足時から、「共同売店だけでなく、商店街や個人商店も地域にとって重要だから応援します」と言ってきました。
ですが、商店街は、ある程度関わらせていただいていたのですが、マチヤグヮーまではなかなか話を聞いたりする機会は、これまであまりありませんでした。

昨年9月以降、マチヤグヮー編では、これまで訪れることの少なかった中南部を積極的に回っています。
その際、回ってみたいと思っていたのが、本島南部にあった「元・共同売店」です。

1980年頃に、沖縄国際大学の研究者を中心に行われた調査があります。
「紀要・南島文化」(沖縄国際大学南島文化研究所)や、「沖縄歴史地図」(柏書房、宮城栄昌)などです。

現在、共同売店は沖縄本島中北部と離島地域でしか知られていませんが、上述の一連の調査によると、

・南風原町兼城
・玉城村糸数
・玉城村奥武島
・玉城村愛地
・具志頭村具志頭
・東風平町世名城

などの集落に共同売店があった(かつて運営されていた)とされています。
それらが現在どうなっているか、というのが、長年、私が確認したかったことのひとつでした。
もしかしたら個人商店として続いている売店があるんじゃないか?ということですね。

ということで、マチヤグヮー取材を兼ねて回ってみました。
すると、

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて

ありました!

八重瀬町具志頭の具志頭売店。現在も営業中です。
戦後まもなく地元の個人が買い取って、個人経営となっています。もしかしたら、土地は集落の所有のままかもしれません。
現在は2代目になっていて、当時の詳しいことは聞けませんでしたが、八重瀬町教育委員会の皆さん、貴重な歴史をぜひ調べて下さい!
上記の6店舗で、現在も営業中だったのは、この具志頭売店のみでした。

追記:具志頭売店、2022年に建て替えられピカピカになってます!
かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて



かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
南風原町兼城の「兼城共同売店」は、大正元年(1912)の設立で戦前まで営業していたそうですが、昭和3年に「理容部」を設置、戦後も残ってダンパチヤーとして営業していたそうです。現在は南風原小学校前のアパートになっているようです。


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南城市玉城糸数の共同売店は、1995年(平成7年)まで続いていましたが、現在は、あった場所が公民館に建て替えられていました。
訪れた時、ちょうど当時をよく知る元区長さんや理事さんたちにお会いできました。今も地域活動がとても盛んですね。
現在、公民館のすぐ隣で、ごく短時間ですが豆腐などを販売している店が営業しているようです。


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南城市奥武島の共同売店は、現在の島中央の公民館の向かい、観音堂の左隣りに建っていたそうですが、現在は残っていません。
字誌によれば「1959年12月の区総会において株式で設置すると決め…、全世帯加入すること、1株1ドル、1世帯最低2株から最高10株…1960年4月1日に奥武共同販売店が設立され、事務所を奥武公民館内に置き、組合長は区長が兼任し、売店主任には○○さんが就いた」(P182)。1991年、組合長さんが病気で退職され、店舗(本店と支店があったそう)は個人に貸し、翌2000年(平12)5月19日に解散。当時の組合員211名、口数9589とのこと。


かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
南城市玉城愛地の共同売店は、戦後設立され、ほどなく個人売店となったようで、現在はアパートが建っていました。
ただ、向かいの倉庫だった建物は残っていました。
字誌によれば「昭和三十三年区民の消費経済の節減のため全区民の要望により株組織をもって公民館の一角を利用し当初の資本金一八〇〇弗をもって開店した」とある。(愛地誌、第二章、区行政の歴史、P 93)
日用雑貨の他、石油、灯油の販売(配達)、ボイラーの販売なども。南部地区ではこういう売店が多いですね。

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
八重瀬町東風平世名城の共同売店は、公民館の近くにあったそうですが、現在は建物も残っていません。
しかし最後に請け負っていた方がまだお元気らしいので、こちらも八重瀬町教育委員会の皆さん、ぜひヒアリングして貴重な証言を残しておいてほしいと思います。

沖縄国際大学の調査リストには載っていない共同売店もいくつか確認されており(読谷村都屋、名護市稲嶺、西表島上原など)、上記以外にもあった可能性があります。

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
地元の人に聞いたところでは、南城市玉城の志堅原にもあった(米のみ?)という話や、八重瀬町の新城売店(閉店中)と八重瀬町具志頭玻名城の奥間商店も元・共同売店だと話す方もいました。
ただし、戦中戦後の配給所や農協、戦前は産業組合や農事小組合の売店とも混同されることも多いので、詳しく調べてみないと分かりません。

かつては本島南部にもありました。元・共同売店を訪ねて
それと、八重瀬町東風平の東風平交差点近くの東風平売店(閉店中)も、名前からして非常に共同売店っぽい(笑)。
これまでの経験上、「部落名+売店」という名前の場合、かなりの確率で共同売店です。
北部では、本部町字東の東売店とか。
なかなか調査に行く時間がないので、どなたかご存知の方はぜひお知らせ下さい!


ということで、南部の元共同売店めぐり報告でした。

念のため、これは単に過去を懐かしみノスタルジーにひたるための調査ではありません。
かつてコミュニティが有していた力を再確認すること、そして現在も有している可能性を掘り起こすこと。
それが、私が元・共同売店を追いかける理由です。

個人商店に変わった元共同売店が、過疎化や買い物難民問題を受けて、再び部落の共同経営に戻る可能性はあると思っています。

私は、経済産業省や農水省、自治体や企業が買い物弱者対策として進める移動販売や送迎・宅配サービスでは、地域はゆっくりと自助能力を奪われ、衰退していくだけだと考えています。

それよりも、地域の拠点となる共同売店やマチヤグワーの復活や、住民が運営主体となる商店(拠点)の設立によって、コミュニティの力を引き出していく方が、ずっとずっと重要だと考えています。



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